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A: 手で持つことができる柄のついた鏡のような形をした縄文時代の住居です。恋ヶ窪東遺跡より出土しました。
『大昔の国分寺』(国分寺市教育委員会1995年)のP84と、『ふるさと国分寺のあゆみ平成19年改訂』(国分寺市教育委員会 2007)P36に記載があります。
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A: 大正14年の国分寺市の人口については『国分寺市史 上巻』10ページで確認できます。
大正10年~13年の国分寺市の人口については、図書館の資料では確認できないため、
民俗資料室(ふるさと文化財課)所蔵の『事務報告書』(明治43年から所蔵)で確認してもらうことができます。
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A: 昭和48年に武蔵野線が開業した際に廃止された日本国有鉄道(国鉄)が運行していた鉄道路線である中央本線(後に武蔵野線)の支線(廃線)。通称「下河原線」。
『多摩幻の鉄道廃線を行く』の29ページに簡易な地図がある。詳しい場所は昭和27年の地形図と航空住宅地図帳昭和50年版で確認できます。
『多摩のあゆみ 88号』(たましん地域文化財団1995年)のP74~P79に地図と詳しい説明があります。
関連本『新廃線紀行』(嵐山光三郎著・光文社2009年)P122~P134
『ふるさと国分寺のあゆみ』(国分寺市 2007年)P298にも下河原線について記載があります。
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A: エックス山近くの日吉町4丁目の信号位置に古道がエックス上に交差していたことから名づけられました。
『こころのふるさとエックス山の植物たち』(国分寺市にふるさとをつくる会2005年)の5ページに、エックス山の名前の由来が載っています。
『国分寺歴史・観光マップ』(国分寺市環境協会2011年)の西恋ヶ窪緑地「エックス山」の開設のところにも名前の由来が載っています。
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A: 『国分寺市の今昔』(国分寺市教育委員会2015年)の123ページに初代からの市長名と就任期間が載っている表があります。
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A: 国分寺村での死傷者などの人的被害は確認されていません。当時の行政文書の中に「震災復旧小学校修繕費」などが議決されていることから、小学校や役場に被害が生じたことがわかります。
『国分寺市史 下巻』(国分寺市1991年)→第三章「大正期の政治と社会」→第七節「関東大震災の影響」のなかに「国分寺村の被害」(P228)の記述があります。
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A: 現在の南町二丁目の大部分が小字“殿ケ谷戸”にあたります。“谷戸”とは湧水により崖が削られ後退して谷が入り込んだ状態の場所をさします。“殿”の由来は不明です。
市報の切抜きをスクラップして作成した『地名から見る国分寺の歴史』(ふるさと文化財課2006年)の第4回に書いてあります。
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A: 昭和40年頃に現在のオーケーストア(本多2-3-1)の近くにあったことが分かりました。
『わたしたちの国分寺』(国分寺市教育研究会社会科部 1966年)の昭和41年発行版に「富士食糧工業株式会社 本多2-3-3」と出ているものを見つけました。
ビスケット工場の写真1枚と「日本セブンアップ飲料株式会社」など当時市内にあった工場や会社の名称と住所も載っていました。
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A: 『半世紀のあゆみ』(国分寺消防署開署50周年記念事1998年)に国分寺消防署昭和24年から平成8年まで管内で起きた死者3人以上の火事の一覧表があります。
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A: 『時は流れて』(国分寺市1997年)P27-31で調べることができます。
町名変更などは『国分寺市の今昔』(国分寺市教育委員会2015年)p110の「大字・町名比較表」で調べることができます。
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A: 『京王電車の開通と府中駅』(府中市郷土の森博物館2016年)の9ページに“甲武鉄道(現JR中央線)が開通すると、府中の人々も国分寺から鉄道を利用した。新宿から国分寺までは所要時間約40分、運賃は17銭だった・・・」という記述があります。
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